今日を生きる人。明日を生きる人

 今日を生きる人と明日を生きる人。

 

自己啓発などをみると、基本的には行動することを勧めています。基本的に自己啓発は現状からの脱却を狙うためのものですから矛盾はないでしょう。

 

私のとある友人は、かなりひどい状況に身を置いています。

母親は結婚と離婚を繰り返し、そのたびに新しい子供を産み、今は3人子供がいます。

私の友人と言うのはこの中で一番上の子供です。

結局、結婚には懲りたのか、シングルマザーですが、子供はそれぞれ障碍者で、障碍者手帳も持っています。

養ってやっているから、という理由なのか、家事は友人がやっており、何かというと重箱の隅をつつかれては、小言を言われるそうです。

家は貧しく、時によっては電気代を払えず電気を止められることもあるそうです。

 

 

本人はこんな環境が嫌だとは思っているのですが、親からの暴力などの影響もあって、極度に人見知りをし、障碍からいっても、バリバリ働くことはできないと言っています。

ただし、私の見る限りでは身体的にはかなり虚弱体質で、片耳が原因不明の難聴であるいがいは、外面では普通です。内面では何が起きているのか、医者でもないわが身では知る由もないですが。

 

その友人は今を生きるので精いっぱいなのでしょう。それは理解しています。そんな生活の中でささやかな気分転換にゲームをすることも仕方ないことだとは思います。私だってゲーム位したいと思いますから。

 

しかし、結局、そんな嫌な環境から、脱却する努力をその友人がしているかと言うと 、私の眼から見てそんなことはしていないように感じます。

 

何も24時間365日、その友人を監視した結果ではないですから何の根拠もないですが、友人が、精神性や身体的な問題を理由に 環境脱却が難しいと言い続けていることから見て、間違いなく何の手立ても打っていないでしょう。

 

私と友人を隔てる大きな壁

私自身は比較的恵まれた環境で、学生と言う身分や、特に何もしなくとも、最低限暮らしていけることから、色々な収入の得方を勉強しています。

将来、会社勤めを早期リタイアすることも視野に含めて、(まぁまぁ)努力しています。

 

一方の友人は、何もできるわけがないとたかをくくって諦めています。今、どういう収入でその一家が暮らしているのか知りませんが、このまま将来は生活保護で暮らしているであろうことは想像に難くないです。

 

その友人と自分を隔てる物があるとすれば、きっと生活の余裕なんだろうと思います。

 

それこそが今日を生きる人と明日を生きる人の違いなんだと思います。

 

今とりあえず暮らすことができるだけの金銭的な余裕と、将来のためにと時間を割けるだけの時間・体力・精神的な余裕があってこそ、明日のために頑張ろうと言えるわけです。

 

明日を生きるべき人が今日を生きざるを得ない理不尽

 

現状を変革するべき人間は私自身よりも友人の方でしょう。

ですが、多少甘えがあったとしても、友人の方が余裕がなく、私の方が余裕があります。

私は学生ではありますが、取り合えず就職も決まっており、その分の努力は要りますが、とりあえず、当面で将来に困ることはないでしょう。

 

不遇な人が自分の環境を脱却するのが難しく、恵まれた人ほど恵まれやすい。

そんな矛盾にどう向き合っていけばいいのかわかりません。

 

私だって、何も考えずに暮らしていたかもしれませんし、浪費の果てに、友人と同じくらいの環境に堕ちるかもしれません。それが嫌なのもあって、色々と手を尽くしているという側面もあります。

 

とはいえ、私が悩んでいるのは、辛い立場にある人ほど、辛い立場から脱却するのが難しいということです。

これでは本当に「持つ物が全てを支配する」世界な気がしてなりません。

 

本当に世界がそう言うシステムで動いてるのだとしても、私は、それを否定する何らかの方法があってほしいと思っています。

それは私自身が成功したいという欲望が含まれていないとは言い切れませんが、このままただ格差が広がっていくのが、世界的ないシステムであり、それが固まっていくのをただ見つめているしかないと思ったら、それこそこの世界に絶望しそうだからです。

 

時間的に余裕がなくとも、金があれば、とりあえず他人に金を貸すことで、その利子だけでも十分なリターンがあります。これを広く一般に向けて社会システムとして成立させたのが、株式投資などです。

 

金さえ貯めれば、金は金のあるところに寄ってくる。

じゃあ、金のないところにというと、当然寄ってきません。それどころか、無知ゆえにそういう人たちほど食い物にされてしまいます。

それが資本主義の目的とするところなのでしょうか。

 

実際のところ、 実力至上主義においては、そう言うところも十分にあるとは思います。でも、だったらそれはそれで、実力至上主義を社会システムとして黙認してほしくはないな、と思ったりもしました。

 

最後に

今回もまとまりもなくただ文字通り駄弁るだけ、になってしまいました。

辛い思いをしている友人がそこから脱却できるのはどうすればいいのかなど、思考は尽きませんが、とりあえず、ここでいったん記事を終わらせていただきます。

 

子育ての難しさを感じる話

飲食店の「子供お断り」

最近はこういうニュースを見かけるようになった気がする。いわば、今年のトレンドの1つなんだろうと思う。私とて20そこそこの若輩であり、社会のことを幅広く知っているわけではない。だから、この問題が随所で内面的に起こっていても、知らなかったことだ。

 

しかし、その無知を踏まえたとしても、たぶん、子供をお断りしたい、子供のマナーが、と言うようなことは今後、増えていくのではないかと思う。

 

その原因は当然、子供に対してどう接するか、子供にマナーをどう教えていくか、と言うことが原因となるのは当然だ。

そこで考え着いたのが、保育園という教育システムだ。

保育園育児の限界

なにも、保育園の先生が怠けていると言いたいわけではない。特に都心部などでは、先生たちは高くはない給料で、必死に大勢の子供を見守っており、限界に近い仕事をさせられていると思っている。

 

私は、人に誇れるほどマナーが素晴らしいわけではないが、一応、敬語はまっとうに使えると言われることも多く、子供の頃も大人しく、高級レストランでも恥ずかしくない子供だった。もともと安月給で暮らす家族が行く高級などたかが知れているし、親も子供の身の丈からかけ離れた場所には入らないように、配慮していたという面も存在する。

 

当時の父のしつけは厳しく、数か月に1回は怒鳴られ、年に1回は殴られたり、玄関から追い出されていたりした。妹ができると、すさまじい勢いで丸くなったことを考えると、きっと私が生まれる前はもっと苛烈を極めたのではないかと思う。私の愚痴はともかくとして、だからこそ、私は外では大人しく、そう言った意味では「マナーの出来た」子供であったと思う。

 

別に殴ったり怒鳴ったりする子育てを許容するわけではない。むしろ、この先、目にするだけでも嫌な気分になるだろう。だから、子供に手を上げるような真似はこの先あってほしくない。

しかし、保育園で行われるしつけよりは、当然、我が父の方が厳しかったはずだ。厳しいと言う観点でなくとも、子供一人に対して向けられたしつけのコストは私の方が大きかっただろう。

 

何が言いたいかと言えば

マンツーマン的な関係と集団保育ではどうしてもしつけの部分で差が出てしまうのではないか

ということだ。

 

私がどうしても苛ついてしまうものの中に、電車内で騒ぐ小学生がある。移動を繰り返したり、大きな声でしゃべったり、下手をすると満員電車のなかで車両内を行ったり来たりする、というのは、非常に困惑する。ジッとしていられないのか、と思う。偏見にまみれたことを言うのは良くないが、こういうのは私立の小学生が多い気がする。彼らや彼女らは電車内で静かにしろ、と言うことを教わる機会はほとんどない。親が電車に一緒に乗るのはせいぜい入学式の時くらいだろうし、その後の最低限6年間は全て自己判断にゆだねられる。

 

保育園→私立小学校という流れを子供に経験させることができたとき、現代社会では、親は満足感を味わう流れなのかもしれない。しかし、それが、子供の、失礼を承知で言うと、身勝手さを助長してしまうのかもしれない。

 

 

終わりに

ここまで書いておいて言うのもなんだが「しつけ」と言う部分がどうしても気に入らなかった。「しつけ」に対しては賛否両論あるだろうし、あってしかるべきなのだろうが、こうやって教育論を展開していくうえで「しつけ」を前提にしてしまうことが、自分の父親の嫌なところを再現しそうで恐ろしく感じてしまうのだ。

次は、「しつけ」と言う言葉について考えるべきか・・・。

 

そして、書いている途中で様々な反論が浮かんできて、結局結論がグダグダになってしまったので、ライターと呼ばれる人々都の力量の差を感じる今日でした。

とある私の同級生のことと彼に対する懺悔の気持ち

 

最近になって、私の中学の頃のとある同級生の近況を人づてに聞く機会があり、ふと、昔のことを思い出したので、書き綴ってみたいと思います。


その同級生について

彼と私が出会ったのは小学生の頃、転勤でやってきたというのを覚えています。と言っても私と彼はさほど仲が良かったわけではないです。タダのクラスメイトとしてお互い顔を認知している程度で、普段一緒に遊んだわけではありません。

彼は自分の感情に対して純粋でした。体育の時間、少人数のチームに分かれてサッカーなどをやるとき、彼は負ければ本気で怒っていました。一方で、テストも一通り解き終わると、たいてい、満点を取ることをテスト中に宣言していました。

ちょっと元気過ぎる所のある彼は、中学に入ってからは、かなり暴れまわっていました。窓を割るわ、消火器の中身をぶちまけるわ、とにかく仲間と一緒になってガキ大将のように暴れまわっていました。何度も何度も説教をされ、学年で集められて説教され、無関係のこちらも辟易させられたものです。

一方で、それでいて純真な部分は残っていて、運動会などの団体競技では決して手を抜かず、練習も結構積極的に来ていたという側面もありました。卒業式でも自分が全力で卒業式を成功させようと思っているのに、その気持ちについて来れない、水を差す奴がいると、すぐに手を出して怒っていました。

ただ、このことは中学を卒業してから思ったのですが、彼はずいぶん肝の小さい人物でした。消火器をぶちまけたのも、ほぼ無人のフロアの廊下でのこと。遠足で行った富士五湖で、グループで樹海を探索する(オリエンテーリングという企画でした)時、私と同じグループだった彼は、私が、ここが樹海か、とつぶやいただけで恐れをなすほどの人物でした。

超人的な物にはめっぽう弱く、たとえそれが迷信めいていてもビビってしまう。そのくせ、周りの空気に乗せられやすく、自分を大きく見せたいがために暴れまわっていた。それでいて、どこか純真な部分も残っている。そのバランスがうまく取れず、臆病な気持ちを押し込めて虚勢を張りたがる。そんな人物だと思っていました。


卒業後の事

しばらくして、彼は18歳になったら即座に結婚したそうです。なんとなく想像はしていましたが、やはりそう言うルートをたどったか、と言う感じでした。記憶が定かではないのが、彼は結婚前に子供ができていた、いわゆるデキ婚だったか、それとも結婚後の出産だったかは思い出せません。

ただ、私は彼がなんだかんだ言いつつ自分の大幅に年の離れた妹を溺愛していたのを知っていたので、どうあってもその子供がぞんざいに扱われることはないだろう、と思っていました。臆病が故に道を踏み外すことはない。そう思っていました。

しばらくのちには、お嫁さんとは離婚して、子供を引き取ったそうです。肉体関係を持つことに対して割と意識が低い女性だったせいで、出産、育児が嫌になって離婚、なんていうのは容易に想像できるシナリオだったので、やはりここでもその通りになったか、と思っていました。そして、やはり彼が子供を引き取ることになったか、とも思っていました。

彼はどうあっても絶対に子供を殺められる人物ではない。それだけは確信していました。

さらにその後

20代前半で、彼は殺人罪で逮捕されてしまいました。その噂は人づてに聞いたのですが、そのニュースには彼の名前と暴力団員という職業が書いてありました。

正直、これは意外でした。落ちていくにしても、そこまで堕ちてしまったのか。流れ流れて、行きつく先が暴力団だったのか、と言うのは非常に驚きでした。ただ、殺人罪は、彼の場合、もはや暴力団で脅されてしまえば否応なくやってしまうだろうということは思っていたので、暴力団に入ったと言うことの方が驚きでした。

しかし、それから数年後、何と、それは冤罪だったということが人伝に伝えられました。しかし、それでも、彼が暴力団員であるということは事実の様で、結局、私は、その冤罪を素直に喜ぶことはできませんでした。

私の後悔

私は非常に後悔しています。中学で暴れまわる彼の臆病さを認め、指摘してやれれば、こんなことにはならなかったかもしれない。一度スイッチが入れば全力でそれに取り組んで、上手く行かなければとてつもなく悔しがる。そんな彼の良いところを認めてあげられれば彼の人生はそこまで大きくは狂わずに済んだのかもしれない。

からしてみれば、きっと屈辱でしょう。指摘こそしなかったものの、学校で誰もが恐れる存在となっていた彼の内心を理解していたのは、いじめられっ子でちょっとばかり勉強ができただけの私だったのですから。

でも、そのことを恐れずに伝えられれば、彼の内心の弱さを暴きながら、彼の良さを認めてやれれば、こんなことにはならなかったかもしれない。

悔いることが無駄だと分かっていても、決して彼が仲の良い友人ではなく、ただの同級生だったとしても、そのことが悔やまれてなりません。

どうあれ、彼はこの先をうつむいて生きるしかないと思います。そのくせ、子供の前では格好を着けて、笑顔を振りまこうとする、バカな親として生きていくことになるでしょう。

彼のことを、一人の人間として、認めてやってくれる誰かが、この先で現れることを、切に願うクソの様な私の、後悔とせめてもの懺悔の気持ちを以って、ここに彼のことを記します。

知の巣窟。はてなブログにやってきた

こんにちは。初めましてです。

 

正直に言ってビビっています。はてなブログなんて、知の巣窟。変な事言って炎上したくねぇよぉとかビビってます。

 

でも、なんか世界に向けて言いたいことがあった。

正直どうでもいいこと。

俺はここに居るぞ!俺はこんなことを考えてるぞ!みたいなその程度の事。

 

友人に恵まれなかったのか、それとも、私の性格が破たんしていたのか。

細かいことは分かんないけれど、現実の私はあんまり自分の考えを発表する機会に恵まれてこなかった。

だから打ち上げられるだけのことをここで撃ちあげたい、と思っている。

だからと言って炎上したいわけではないのだが・・・。